●いつものお菓子をいつものように
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但馬屋老舗を訪ねたとき、何世紀かタイムスリップしたような気がした。店構えだけ見ると、まるで時代劇に登場する旅籠のようでもある。「古めかしい」「由緒ありげ」「立派な店構え」、人によって印象は様々だろう。だが、紺地に白い文字で抜いた「御菓子所」という暖簾で何を商っているかを知ることができる。一体いつごろの建物なのだろう。
板井良助社長が本店の隣に併設された「茶房だんだん」で説明してくれた。
「この辺りは西南の役で焼かれ、この店も1878年に約130年前に建てられた商家を改造したものなんです」
130年とはすごい、と感心するのはまだ早かった。なんとこの店の創業は1804年(文化元年)というから、まもなく200周年を迎える。大分県下では最も歴史ある和菓子店だそうだ。初代は兵庫県の出身、京都で菓子作りを修業した後、岡藩の御用菓子司として当地に店を構えた。現社長は6代目。代々当主の名前は「○助」とついているが、初代から4代目までは幸助の名を世襲してきた。 |
| 正面からだと全体が写真におさまらないほど道幅は狭い。手前が店舗、隣は茶房だんだん |
そして、但馬屋老舗を代表する菓子が「三笠野」。岡藩の8代藩主が参勤交代の折に、好物であった奈良の菓子を持ち帰って家臣に分け与えた。これが慣例になり、10代藩主のときに初代但馬屋幸助に倣い作らせて完成させたといういきさつがある。三笠山・春日野にちなんだ菓子とのことで、三日月のような形が「天野原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出し月かも」(阿倍仲麻呂)という和歌を思い出させる。皮の香ばしさとあんの組み合わせが飽きのこない上品な味わい。鯛焼き屋は鯛焼きだけしか販売していないが、「三笠野」だけで商売が成り立つのではないかと思えるほどの但馬屋の代表作である。
「三笠野」のレッテルに印刷された文字は江戸後期から明治にかけて画聖として知られた田能村竹田の版木によるもの。彼は岡藩の藩医の家に生まれ、初代と親交があったそうだ。
そして、もうひとつの代表作は「荒城の月」。大正時代までは「夜越(やごえ)の月」と呼ばれ、明け方の白い月をイメージして外側は白い淡雪かん、中身は黄味あんが入っている。土産に持ち帰るならば「三笠野」とどちらにするか迷ってしまう。客の心を先読みしてくれたのだろうか。ちゃんと「三笠野」とのセットが何通りか用意されている。
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| 「三笠野」と「荒城の月」 |
「荒城の月」は、滝廉太郎作曲の歌にちなんだもの。竹田は滝廉太郎が少年時代を過ごした町であり、唄のモデルとなった岡城址や滝蓮太郎記念館がある。
このほか「岡の雪」は岡城にうっすらと積もった雪をイメージし、淡雪を特殊製法で乾燥させたもの。創業170年を記念して発売したところ、午前10時と午後3時にお茶を飲む習慣があり、その茶菓子としてとても好評という。
田野村竹田にあやかったものでは「画聖」「竹田荘」、滝廉太郎では「メヌエット」など。ほかにも岡城築城800年記念銘菓や、松本清張作サスペンス小説の記念銘菓などもあり、和菓子の由来を聞いているだけで、その土地の出身者や名所、文化などがわかってくる。竹田とはこんなに魅力的なまちだったのか。イメージに合わせて菓子を考案するのは楽しいに違いない。
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創作菓子を作り出しているのは実姉の西宮浩子専務である。
「ピアノの催しのときに作ったのがメヌエット。とてもおいしかったのでと要望があり、日頃も扱うようになりました。小袖ゆずは竹田でとれたユズを甘露煮にしたもので、とても好評なんですよ」 年間に5種類ほどは新商品を開発している。特産のユズ、カボス、クリを地元の生産者から仕入れて作る和菓子も多い。農業人口は約24%を占めるが、シイタケ以外はどの特産物も生産が下がり気味。そうしたなかで、少しでも地元農業を支援する意味で、商品化の工夫をしている。
一般の菓子店なら多少は仕入商品も扱っているものだが、但馬屋では煎餅以外ほとんどが自家製である。
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| 店内に創作菓子が並ぶ |
店内には様々な表彰状が飾られていた。表彰状で最も古いものは3代目板井幸助さんが1902年(明治35年)に「鶴の巣籠(すごもり)」で受賞したものだった。
「鶴の巣籠は、父が祖父から一度教わって作ったことがあるのですが、現在は幻の味になっています。まだ満足がいかないので店に出していませんが、いつか復活させるのが私の夢です」と西宮専務。
伝統菓子については、代々変わらない味を貫いている。時代によっては甘いと受け取られたり、淡泊といわれたりするが、店の味については妥協しなかった。
「いつものお菓子をいつものように」が同店の信条である。その真意は、変わらぬ味を維持し続け、おいしい菓子を茶の湯における「一期一会」のおもてなしの心で販売することだそうだ。
●歩いて楽しいまち、狭い範囲に3店
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和菓子とお茶は深い関わりがある。喫茶室を併設したのも、店としてのおもてなしの心を実践するためなのだそうだ。「茶房だんだん」(竹田に伝わった京言葉で「ありがとう」の意味)では当主の趣味である音楽が流れている。「店主の趣味性を出して共鳴してくれるお客様を射止めることも大事」と考えた店づくりである。竹田薪能や竹楽など大きな行事を撮影した写真パネルが本店喫茶室に飾られていた。そこから観光客との会話も広がっていく。同じ場所に地元の女性たちが作った小物手芸類も飾られていた。女性の手仕事が似合う城下町もひとつのテーマにしているのだそうだ。
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本店から地続きであるが、裏手の通りから入る「茶房たじま屋」は、庭に茶室を配した。季節の催しのときには来店客にお点前をしながら和菓子と抹茶をサービスするそうである。西南の役で焼け残った土蔵を1985年に改築したもので、こちらも時の歩みが止まってしまいそうな落ち着いた雰囲気。喫茶だけでなく、地元産の赤米やクリ、サフランを使った「赤米がゆ」や「ちくでん栗おこわ」などの食事もできる。
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そこから50mほど離れた場所に、1995年に建てた「但馬屋新屋」がある。こちらも和風の建物で、緋毛氈の縁台、人力車などが入り口になにげなく置かれていて、旅人の憩いの場というイメージに造られている。1階が売店と喫茶室で、「三笠野」の実演販売をしているので、1個90円で焼きたてを味わえる。ここでは通年の三笠野作り(料金2000円)から、4月に桜もち作り(1000円)など体験型楽しみを提供していて、観光客にも好評なのだそうだ。自分で作ったものを抹茶で味わい、残った分は旅の思い出も込めたお土産にという発想である。
また、2階をギャラリーやコンサートが行えるスペースにしていて、年に5〜6回は有料の音楽イベントを開催するとのこと。地元の人たちの発表の場にも利用されている。
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これらの3店は半径50mほど。こんな狭い範囲に3店も出す必要があるのかと思う人もいるだろうが、1店が満席だった場合にすぐ近くの店に足を運べばよいというのは、客にとっては大助かりである。喫茶と地元の手芸工芸品などを味わえる店、静かなたたずまいで食事できる店、菓子づくりを体験できる店など3店は、それぞれコンセプトも違う。だが、「きれいな空気を吸い、竹田の水で入れたお茶と一緒に和菓子を堪能してほしい」と願う気持ちは共通だ。観光客の憩いの場、町の人々の語らいの場、客人が来たときのもてなしの場など、様々な用途で利用されている。
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竹田の町の中は安全なので安心して歩ける。「歩いて楽しい町」が竹田のテーマであり、但馬屋はその先導役にもなっている。但馬屋のように、「何だろう、入ってみよう」と思わせる店も町もいくつかできてきた。
ところで、取材した日にはまだ観光客の姿が少なく、町を歩いてもあまり人が歩いていなかった。竹田市の人口は2002年に1万7683人、大分県にある市の中では最も人口が少ない。60歳以上が約40%を占めるなど過疎化と高齢化が進んでいる。
こうした状況は20年前から予測できたにもかかわらず、変化への対応は遅々たるものだった。町を活性化するためにはみなが意識を変えていかなければいけない。そこで、残された可能性は自然や名所旧跡を生かした観光産業だった。
現在、竹田市には年間100万人の観光客が訪れる。4月に岡城での桜まつりのように自然を愛でるものもあるが、10月に三日月岩前特設舞台で行われる竹田薪能、11月の竹田竹楽(竹灯籠を灯した幻想的な雰囲気の中開催される尺八や琴・笙等の街角コンサート)など、伝統芸能的な行事で近隣から大勢の観光客がやってくることもこの町の大きな特徴になっている。
こうした催しについても、板井さんは積極的に働きかけてきた。町全体が危機感をもち、地域コミュニティーをあげて盛り上げていくイベントをしたいという機運になったときに、能を提案。その竹田薪能はことしで20回目を迎えるビッグイベントになった。地方に残る伝統文化を継承していくことも、その土地で生活する人々の使命と考えている。
●外へ出てふるさとの魅力を知る
実を言えば、これほどまでに地域を愛し、まちおこしや伝統文化継承に情熱を注ぐ板井さんが若い頃には別の仕事をめざしていたというのは意外だった。
「大学では英語を専攻し、父親が元気なうちは外交官か商社マンになりたかったんです。エコノミックアニマルといわれて誤解されている日本人のよさを伝えていければとも考えていました。
でも、大学2年で父が亡くなったため、卒業後は日本菓子専門学校や菓子店で1年半修業し戻りました(1982年)。
学生時代は北九州市で過ごしましたが、当時は公害がひどく、空気が汚かったですね。ふるさとへ戻るたびにほっとしたものです。竹田は山紫水明で、名水百選に選ばれるほど美しい湧水があり、空気も水も美しい。外へ出て、そのすばらしさがよくわかりました。
学生のころは、萩、津和野、松江など歴史・文化のある町を旅行したものです。このときに、派手な佇まいではないけれど、和菓子屋が地域の顔として根付いているのを見ました。稟とした風情がありました。だから、和菓子屋も悪くないと思ったのです。
帰省直後、竹田にも大型店の進出問題が起きました。このとき反対運動の限界を感じ、独自性のある商品を作り続けなければ、老舗であっても生き残ってはいけないと学んだのです。むしろ外へ出たからこそ、客観的に自店を見つめることができたと思います。伝統を守り続けていた和菓子店を思い出し、その町の文化の一翼を担っている素晴らしい仕事だと納得して店を継ぐことができました」
ところが、仕事を始めてしばらく経ったときだった。配達に行ったところ、年配の客が何気なく「最近この菓子変わったね」ともらした言葉に思わずドキッとしたそうである。
「『千歳木』という干菓子は片栗粉を用いていましたが、当時はカタクリから作る片栗粉が入手できず、やむなくバレイショでんぷんで代用していたのです。それからは、伝統菓子は製法だけでなく、原材料もできる限り昔のものに近づけることにしました」
伝統菓子は売り上げの7割を占めるが、お客のたったひとことが30年近くたったいまでも忘れられないというのは、店の姿勢を知る好エピソードかもしれない。
これだけの老舗であるから、百貨店から出店のひきあいも多い。都市圏の有名百貨店に出店すれば人気は全国区になることも予想されるのだが、こうした申し込みはすべて断っている。竹田の町へ行けば買えるというようにしたかったのである。また、地元のお客を第一に考え、地元に売れる分だけ作ればよいとも考えてきた。
だが、特別な販売促進などをしないにもかかわらずリピート注文をする顧客が増えてきて板井さんの考えも少しずつ変わってきた。
百貨店の催事出店の折には、近くの顧客にDMを出し、インターネットのホームページでは通信販売も手がけ始めた。これまでは竹田という土地を見つめ直し、魅力あるまちの地盤固めをしてきたのが、積極的に外へ向けて情報を発信するようになったのである。多忙にもかかわらず、板井さんはホームページ内の「当主の独り言」で近況や折々の思いを綴っている。
「農から産まれる原材料の持ち味を大事に、その生命に感謝しながら安全で安心な食べ物としての和菓子を作りつづけたい」
「茶の湯の一期一会の、おもてなしの心は私どもの目標です」
「人を幸せにする産業として立派な功績を観光は残すことになるでしょう」
((文・川島佐登子 取材2003年3月末)
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