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●なぜ着目したか 「新しい品目を定着させるのは至難の技ではない。だが、絶対に失敗は許されない。どうやって栽培し、どうやって販路にのせるかといってもわからない。だから、試行錯誤なんてものではなかったね。けれども、一番大事なのは、農業は一人ではどうにもならないってこと。これは農業の現実でもあるね。 ゼロから出発する場合、まとまった集団で取り組まないと成功しない。集団を生かすためには、私自身が私利私欲を離れることが第一だった。一攫千金を夢見るようでは誰もついてきませんから」 ――朝倉さんは、最初にサニーレタスの成功の一因をそう言い切りました。サニーレタスという名称の商標登録、続いて開発したサニーレタス用包装道具の実用新案登録、と「金の成る木」があったものの、サニーレタスそのものの幅広い普及を願って自分の権利にはしませんでした。これが普及の第一歩になったと自己分析しています。 「私は農業の生まれではありません。私の代から農業を始めました。戦後の食料難のとき、2aの水田で1俵とれた米はダイヤのように大切に思えた。無から有になる喜びがあった。だから、農業をしているという証として、無から有を生む足跡を残したかった。新しい野菜に対する取り組みで、スタートから違っているとすれば、先祖代々の農業者と違って農業を新たな視点から見ることができたことかもしれないね」 ――いまは新しい野菜だが、将来必要になるだろうと先を読むなかで出てきたのがサニーレタスでした。 「サニーはヒット商品ではない。なぜなら、確実に当たるという読みがあったからだ」 では、その読みとは何だったのでしょう。 「昭和40年代に入ると学校給食はパン食でした。一日一食はパンを食べている子供たちが親になれば、自分の子供にもパンを食べさせるだろうということは容易に想像できる。そうなると、パン食に合う野菜はキャベツやハクサイではないはず。当時、全国的に玉レタスの栽培が伸びていましたが、自分たちの産地は追いかける立場なので、一番手にはなれないとわかっていました。 次に、食生活の洋風化に伴って、彩りのある野菜が伸びてくるだろうと確信しました。彩りとなる野菜はみんな赤い。洋風料理に合うレタスにはなぜ赤いレタスがないのか。赤いレタスならば絶対に受け入れられるだろうと思いました。 三つ目は、外食産業の伸びです。それとともにレタスの需要は増えるだろうと読みました」 ――その時分、冬はキャベツ、夏はニンジン、ジャガイモ、メロンなどの果菜類を作っていて、洋菜類はまるで作っていなかった朝倉さんですが、食生活の変化、料理の洋風化、外食産業の伸び、この三要素に合う野菜を作ればよいというのは確信に変わっていました。中でも、業務用に向く野菜については、最も期待するところでした。 レタスを片っ端から試作しましたが、当初レタスにリーフ系があることを知らなかったので、「あれ、玉にならん、こりゃ、だめだ」と思ったそうです。ところが、レストランの厨房で、レタスを一枚一枚はがすのに手間どっているのを見て、リーフ系レタスならば業務用にも優れていると知りました。 (1)今後伸びが期待できるレタスの一種である、(2)料理の彩りに向く赤いレタス、(3)一枚ずつはがしやすい、その三要素があるから売れるはず。そして、このレタスを当初「レッドレタス」と命名しました。 ●いかに売るか−PR ――これから先の生産体制、売り込みに奔走する朝倉さんの姿勢もユニークです。 栽培についても、白マルチ栽培で大失敗し、黒マルチに変えて、年内から4月にかけて3期に分けて作る栽培法を確立しました。一見すると順調なサニーレタスの歩みも、陰では様々な苦労があったそうです。 苦労といえば、「どう売るか」についても一工夫しました。 「試作品の段ボール箱に2つ唐草模様の風呂敷で背負って東京に出たんだけど、今思うと滑稽だったね。日本一の青果会社だから、当然知っているだろうと思って、東京青果に行って見せたら、レタスは結球してるものだ、こんなもの売れるかと言われた。そこで、開き直って、欧米では60%は非結球レタスだ、大使館へきいたらどうだと荷物を置いて帰ってきた。すると、本当に大使館に聞いてくれてね。大使館の人は、このレタスは日本にないので大使館内の家庭菜園で作っている、昭和天皇が本国訪問の折の晩餐会メニューにもこのレタスが出たと言ったらしい。それで、卸売会社でもこれはエライことになった。ひょっとしたら今後伸びる野菜かもしれないということですぐに電話がかかってきた」 ――野菜を取り扱う市場がゴーサインを出し、第一関門を突破しました。しかし、朝倉さんは慎重でした。生産と供給のバランスを崩したらだめになると考え、初年度は生産者11人で1ha未満しか作らなかったのです。 翌年は、農協内の洋菜部会に、前途有望な野菜としてもちこみ、生産量を増やしました。生産品目が同じという部会づくりも全国に先がけて提唱しましたが、これも「歩みがみんな一緒だと、結束も強く、技術の交流も可能」と考えたからです。洋菜部会は、現在約400人、1980年代前半にはサニーレタスの栽培面積が60haとピークを記録しました。 2年目に入って生産体制も販売先もめどがつき、後は「いかに売るか」のPRが問題になります。 「ここで、テレビの料理番組があることに思い当たり、有名だった江上トミさん(故人)に電話をしました。すると先生は、赤いレタスでしょ、よくぞ作ってくれました。これは日本に残るし、料理の革命になる。でもレッドレタスでは語呂がよくない。もっとスカッとした名前に変えなさいよってアドバイスしてくれました」 ――江上トミさんの鶴の一声で、それまでに6000枚ほど作ったレッドレタスのチラシはお蔵入り。そこで、太陽の恵みを全葉に受けて赤色がきれいに出るレタスのイメージで、「サニーレタス」という親しみやすい名前に変更したのです。
――サニーレタスの包装道具も、いわば朝倉さんの互助精神から生まれたもの。考案した道具はコロンブスの卵のようなもので実演してもらうとなるほどと感心するばかり。寝てもさめても何かいい方法はないかと考えているうちにヒントが浮かびました。かくて、「非結球レタスの栽培法と包装道具の考案」により、科学技術長官賞を受賞したのです。
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